テキサスの州都オースチンは、新緑の美しい季節をむかえていた。萌えでた若葉から若葉へと鳥たちが飛び交う市街地を離れ、雪解けの豊かな水を湛えた河を渡り、郊外へ40分ほども車を走らせれば、そこには見渡すかぎりオークの樹海がひろがっている。私はケビン・シュワンツの運転するアウディ・クワトロに乗り込み、彼の牧場へ向かっているところだった。
 ウェイン・レイニーは現役時代、この4歳年下の痩せぎすで、生意気そうな長身の男を執拗なまでに意識していた。ヤマハの開発スタッフである桜田修司や中島雅彦に「僕のほうが勝っているのに、なぜケビンのほうが人気があるんだ」と真剣な表情で問いかけたこともある。レースでは自分の前後をだれが走ることになろうと、タイム差が表示されるチームのサインボードには、ケビンただひとりの名前を掲げさせた。ピットにもどってくれば、決まってまず最初に「ケビンは何秒だ」ときいた。
「トレーニングで丘陵地帯を走るとする。僕は考える。あの丘の上をケビンが走っている、と。やつを抜け、抜くんだ。僕はつねに自分にそう言い聞かせて走っていた」
 とウェインは私に言った。
 いま運転席でラジオを鳴らしながらハンドルを握っている白のポロシャツと短パン姿の男は、ウェインのあの事故の年、初の世界タイトルを獲得して以来すっかり抜け殻のようになってしまい、30歳の若さでロードレースの世界から引退していったそのケビンである。
「ウェイン.....生まれてこの方、思いどおりにならなかったのは、あいつだけだった。結局のところ、あいつのことしか頭になかったよ。勝てなくても、優勝できなくても、あいつとレースして、あいつを負かしてやればそれだよかった。あいつに勝てば、なにより嬉しかった。あいつもきっと、おなじように思っていた はずさ」
 ケビンはついきのうのように早口でふり返り、意味ありげな笑みを浮かべている。ゴルフを一緒にするようになったのは90年あたりからで、それまではおたがいに顔を見るのもいやだった。レースのあとバーで 出くわしたりすれば、どちらかが先に出ていった。おなじ部屋にいること自体、耐えられなかった。それに、と彼はつづけた。
「87年ごろ2、3ヵ月のあいだ、ウェインの妹と付き合ってたことがあるんだ。家にデートに誘いに行くと、玄関先でウェインが仁王立ちになって、なにしに来た、と怒鳴る。妹を誘いに来たんだって言うと、ドアをバタンと閉めて、おおい、ケビンが来たぞ、なんて当てつけがましく大声で叫んでるんだ」
 32歳になったケビンは、額の生えぎわのあたりがすこし薄くなり、眼のまわりのしわも多くなった。腕や手首、膝には手術の生々しい痕がのこっている。「世界最速の男」「無冠の帝王」などといわれ、世界グランプリにフル参戦してわずか2年目の1989年には、全15戦のうち最多の6勝をあげながら、6回の転倒リタイアが災いして、エディ・ローソンに初の栄冠をさらわれた。それでも「優勝か転倒か」と見るものを釘付けにする彼の攻撃的な走りは、ウェインが嫉妬するほど熱狂的なファンを集めることになった。
 ふたりのライバル関係は、1986年からはじまっている。アメリカ国内のAMAスーパーバイク選手権でウェインはホンダのエース、ケビンはスズキのエースだった。87年の彼らはほかのどのライダーも寄せつけず、ふたりだけの激闘をくりひろげた。ケビンはウェインの3勝を上まわる5勝をあげながら、ウェインにチャンピオンシップを譲らなければならなかった。それほど転倒リタイアが多かったということだ。
 88年からふたりはそろって世界グランプリ500ccクラスにフルエントリーし、2年目のシーズンでは第1戦の鈴鹿でいきなりトップ争いを演じ、コーナーというコーナーでたがいに抜きつ抜かれつしながら、最終ラップまですさまじいバトルを展開した。ケビンがウェインを振り切り、わずかの差で優勝を飾った。こうしてウェインvsケビン時代の華々しい幕が切って落とされたのだった。以降、ウェインのあの事故の日まで、彼らは力のかぎりをつくしてぶつかり合った。ウェインは90年から3年連続でチャンピオンに君臨し、ケビンはそのあいだ2位、3位、4位と、ウェインの底力とみずからの転倒に泣かされつづけた。

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